昭和41年09月10日 朝の御理解
人間氏子の真の助かりを願うておられる神様。ためには、どういう氏子にでも分かるように、あらゆる角度から、その助かって行く道を、説き明かしておって下さる。教祖の神様の教えて下さる、いわゆる御教えの一つ一つが、そうした人間氏子の真実の助かりを、説いておられます。けれども、それがあまりにも平易な言葉で表現しておられますので、その深さに触れていこうとしない、精進しないなら、それは助かりの言葉に、助かりのための御教えにはならない。
そういう意味で私最近、教祖の神様の御教えの、その深さというものを日々の、御理解の中に感じさせて頂いて、こういうふうに教えて頂けば、分かるな、こういうふうに教えて頂けば、教祖の仰る、真の信心に入っていけれるなと、と言うふうに思わせてもらい、それを行じて行くところに、その御教えが血になり肉になり、本当の助かりと言うことの、原動力と言うことに、なるのでございますけれども。それを頂いただけで、そういうふうに頂かなかったら、人間氏子の助かりのために下さっておる、御教えも何にもならないことになるのです。
例えば昨夜の久富勇さんところの謝恩祭、しかも昨日はちょうどあちら達が入信のおかげを頂かれて丸十年、入信のおかげを頂かれる動機と言うのは、皆さんもご承知のように、もうおそらくあの久富さんたち夫婦が、一生を通して一番難儀を感じられた時であったろう。ま、何と言うか、実に陰惨なというか、も、ほんとに脇からみておっても見ておられないほどのじゅつなさの中に、御神縁を頂かれたんです。
そこで溺れる者は、わらをも掴むというと言う様なところから、どうでもほんとに助けてもらいたい、どうでもこうでも、ここんところをおかげにして頂きたいという、ただ願いが、勇さんの信心であったと、その時思うのです。それがあんな広大なおかげを受けられて、いよいよ夫婦の方たちの信心が、いわゆる前向きの姿勢を持って、十年間進んでこられた。もう実に、日頃もって生まれておられる、一つのなんて言うか、良さと言うか、信心のいわゆるあのま、お道的とでも申しましょうかね。
金光様の御信心ぶりというものが、身につきやすいような、その大体が人柄であり、そういう性質の御夫婦ですが、ほんとに皆んなが、ま一つの信心の手本としなければならないようなものを、あちらたち夫婦の信心に、それを感ずるのですが。十年経ちました今日、そういう難儀な中から助けて頂きたいという、一つの信心の在り方の中から、だんだんもう一つの信心の在り方。いわゆる真の信心への在り方、いよいよわが心が、神に向こうて行くというということを、有難いとする信心。
昨夜の御理解を頂いてから、改めて思わせて頂いたんですけれども、狐狸ですら死したる、神にまつられるということを、喜ぶというではないかと、まして人間、万物の霊長が死したる後、神にまつられるということを、楽しみに信心せよと。金光様の信心しておれば、だれでも神様にまつられるというのではない。それはなんなんの御霊の神というから、んなら神様にまつられる、そういう意味じゃない。それがもし一家中の信心が出来ずして改式が出来ておらずして、仏さまにまつられるかもしれん。
それは仏とか神とかて言う問題じゃない。金光様の信心を頂いておるから誰しも、神に祀られるということじゃないけれど、ね、金光様の信心を頂いておるもの全てのものがです、ここんところに焦点を置き換えての、信心でなからなければならない。それはわが心が神に向かうということであり、ね、死したる後神にまつられるということを、楽しみということであり、楽しみの信心である。焦点がおかげということが焦点である。
ならこれは何十年、一生信心しておっても神に祀られるというようなことはあり得ません。わが心が神に向かうて行きよる、わが心が神に向こうて行きよる信心、ね、狐狸ですら、神に祀られるということを喜ぶというではないか、まして人間万物の霊長、ね、死したる後、神に祀られるということを、なら、神に祀られるということはということは、ならとても生きながらに神様に、それはなかなか難しい事の様に聞こえるのでありますけれども、私どもの心から焦点が置き換えられるだけだということ。
そこに神に祀られるということになってくる。私どもがね、神に祀られるていうことを楽しみの信心。例えば、久富勇さん達の御信心がです、あの時の難儀を助けてもらった。それからとてもやっぱりなら、様々な難儀というものは、人間に、ま、言うなら付きもののようなもの。その難儀というのがあの時あってこそ、私どもがこうして真の道を知り得たんだというところにです、あれは難儀ではなくて、あれは神様のいわゆる神愛の表れであるということが分からしてもろうて。
けどその神愛を、神愛として分かるということもです、ただそれがおかげ、おかげを頂くために今日まで十年間信心が続いておるというのであったら、大した値打ちはないですね。いわゆる神にまつられるということにはならんのです。ところがそこから、言うなら入信して、信心に入って来て、信心の道というものはこういうものだと。自分の心が神に向かい、死したる後、神に祀られえるということを一つ楽しみ、自分の心の願いの焦点というものをです、もう置き換ええるだけで、神にまつられる、まつられない、もうここまで来なければ神にまつられんということじゃない。
それでどんなに高尚な信心が例えば分かってもです、何十年の信心をしておってもです、焦点が例えば、難儀な中から助けて頂きたいと、いうことだけの焦点であるとするならばです、これは何十年経ったって、神に祀られる楽しみはないですね。自分の心が去年よりも今年、と言う様にです、確かに、神に向こうて行きよる証拠に、有難いものが大きくなっていきよる。信心をすれば、一年一年有難うなってくるという信心の、本当の姿の信心そういう信心。
自分の心は、去年よりも今年と言うようにです、確かに神に向こうておる印というのを感じさしてもらうためにです、焦点を変えなければ、そこんとこ、ただおかげを頂いて有難いていうのは、それは真に有難いというのではない。自分の心がです、楽しゅうなってくる。ね、この信心を進めていきさえすれば、神に祀られるという楽しみという、その信心がです。私はここのところの何回も何回も、何回も、それこそ何十回も読み返し読み返しして分からな、私分からんでおった。
神に祀られるということはどういうことであろうかと。信心しよりゃ誰でも神に祀られるのじゃろうかと。ところがそうではない事を、昨夜の御理解によって分からしてもらった。ところが果たしてです、お互いが長年信心を頂いておるが、わが心が神に向こうておるだろうか。わが心が神に向こうのを、信心と言うのじゃと仰るが、教祖の神様の仰る信心とはどういうことだろうか。ね、
椛目に向こうて来よるから、信心というわけじゃない。ここの場合、ね、わが心が神に向こうてすんでいきよるということを楽しみの信心、いわゆる死したる後、神に祀られるということを楽しみの信心。一生懸命お参りすりゃ、神に祀られるということではない。焦点が神に祀られるということを、楽しみの信心というのは、自分の心が神様へ向って一歩づつでも近づいて行よる事を楽しましてもらうという信心。
それが私は死したる後、神に祀られるという事になるということ。分からしてもらう。でないものはもう、本当に早速、只今からその所に焦点を置かれての信心のけいこでなからなければ、いわば何十年の信心さして頂いたっちゃ、同じ事ということになる。このおかげばもらうまで、このおかげを頂くまで、というような信心がです、何十年続いても駄目だということ。どうですか、そこから皆んなは入り口ですから、入ってくるんですけれども、そんためにも教えを本気で頂かなければならんことが分かって参ります。教祖の神様が、教えて下さること。
人間氏子の真実の助かりのために、も、しかもそれはどういう中にでも、解る様に、あらゆるしかも角度から、ね、わが心を神に向かうことを説いておられるのであり、死したる後に神に祀られるということを、楽しみに信心がでけるように、説き明かしておって下さるので御座いますけれども、ね。そこんところに開眼、そこんところに信心とはそうだということを分からなかったんでは、いつまでたっても同じこと。
そこに私どもの、なるほど真の信心になれば、物の見方考え方て言うのが全然変わってくることが分かります。神に向かってるんですから、考え方が違って来る筈なんです。それこそ神様が思いなさるのであろうか、神様が感じなさるのであろうかと言う様な心、そういう心が一年一年強うなって来る。なるほど信心が十年と続いたら吾とわが心をまつれと仰るような事になって来る。
十年信心が続いたら、吾とわが心が本当に祀れる。もういよいよ神に成れていく道をただただひたすら、そこに焦点をおいて自分の信心が、進んでいきよると思うから楽しいのである。ただおかげ、おかげというならば、いわゆる我情我欲がますます強うなるだけじゃないですか。いわゆる霊徳の、霊光を発揮すると言った様なことにもなってきませんし。先日から頂きます、ひとりでにものが出来る様なものぞとこう仰る、私どもの心が神に向こうて行く信心。
私ども死したる後、神にまつられるということを楽しみの信心。そういう信心こそが、私は自分の心が肥えてくる修行をすることだとこう私は思う。ね、自分の心が豊かに肥えてくる。とかくに信心はを肥やせ。地を肥やしておけば、ひとりでにものができるようなものであるということ。それこそおかげは願わんでも、どうぞ大根下さい、人参を下さいと言わんでも、もうそこには大根がたくさん出来ておる、人参が沢山出来ておる。ひとりでに育っていきよる。ね、
そういうおかげも、また楽しまれることが出来る。人参下さい、大根下さいというだけの信心ではつまらん。ひとりでにものが出来る様な、おかげを願わせて頂くために、私は今日の御理解、これは昨夜の勇さんとこでの、御理解でしたけれども、改めてこれを頂かしてもろうて、もうここだけでも、お道の信心の素晴らしさというものを感じます。もう教祖の御教えは、あのどこまで深いやらわからんですから、その深い、その深さに触れなければです。
いわば深さに触れるという事は、説いて頂かなければ、実際は分からんのです。私ども何十年したって、その御教えの真意というもの、私ども知らなかったんです。神に祀られるという事を楽しみに、というのはただそれだけを、信心しよりゃ神に祀られるもんのごと思うとった。というてなら、信心さして頂いても、神に祀られるという事は大変に至難なこと、難しい事のように思うておった。ような事ではなくてです。
ただ自分の心が神に向かうというだけの事なんだ。真の信心に向かうというだけの事なんだ。そこになら自分の心のいよいよ豊かになっていくということ。地を肥やしていくという事。心を肥やしていくという事の楽しみというものを分からして頂くところにです、そこにはおのずと、ひとりでにものが出来る様なおかげになって来るということ。本当に確かにこの神様の信心というのは、話を聞かなければ分からんと私は思う。
話を聞いて助かる、ただの話じゃないて。その神様の御教えの、その御神意というものがです、説き明かしてもらわなければ分からん。そしてなるほどだと分からしてもらわなければ、血にも肉にもならないて。ただ聞いただけではいけん。やはりわが心からもねり出させてもらわなきゃいけん。そしてその御教えの深さに触れておる人の話を聞かなければ分からん。おかげを頂いたな、夕べ私このことだけでも、おかげを受けたなと思うて、夕べ帰らして頂いたんですけれどもね。
どうぞ皆さんの心がです、ね、神にほんとに向こうておる信心であるか、おかげに向こうておる信心であるか、という事で私どもは死したる後、神に祀られるか、祀られないかということの、いわば岐路になるのですから。ね、ここんところは本気で、そこんところはぁそうだなと分からしてもらうところに、信心は見やすいものということになって来る。しかもいやがうえにも、自分の心は豊かに大きくなっていくでしょう。ひとりでにものが出来る様な徳もだんだん身に付いてくるでしょう、ね。
そういうおかげを頂かせたいという、いわば天地の親神様の願いがです、あらゆる角度から、あの182カ条の御教えというのはですね、あらゆる角度からそこんところを分からせたいという、願いの教えに他ならないというふうに思うですね。どうぞ皆さん、あの御教えがね、本当に血に肉にならなければ駄目です。ただ頂いとるだけでね、ただ美味しかったと食べて、それが出てしもうたのじゃなぁんにもなりません。血に肉になって、成程そうだという所はです、自分の行の上にほんとに表していかなければならんですね。
どうぞ。